チョコケーキの居場所

予定がない休日。近所を散歩していた。
ふと、小さな喫茶店が目につき、
はじめて足を踏み入れた。

カランコロン、軽やかな音色。
いらっしゃいませ、ふわりとした声。
ゆるやかに流れる、音楽。

丁度よい距離感で、優しい眼差しのおばさまと、
こだわりありそうなおじさまが、佇んでいた。

チョコケーキとドリンクのセットが
700円と安かったので、注文し、
ほどなくして、サーブされた。


チョコケーキは、ただチョコを溶かして、
小麦と卵で固めたような素朴な味だった。
アーモンドプードルとか、ラム酒とか、
小洒落たものは一切入っていない。

アイスコーヒーは、氷の音が繊細で、
酸味と苦味が主張しない、和やかな味である。


食べすすめるごとに、心がほどけていくように感じる。
ずっとここにいたい、そんな気分にさせる。


これは、母の味だった。


「できたよ」
一階から甘い匂いとともに、声がして、
二階の自室から、転がるように降りていった。

母は、たまに、ケーキを焼いてくれた。
お気に入りの長細いグラスには、コーヒーとたくさんの氷。
焼きすぎただの、砂糖を控えすぎただの、
毎回、言い訳をするのだけど、
いつも、きまって、最高に美味しかった。



あたたかくて、静かな空気が流れていた。

わたしは、しあわせの真ん中にいる。



そんな記憶の中のやわらかい場所を、
チョコケーキが、想起させる。


最近、ケーキを食べたのは、
自由が丘、代官山、銀座、
高級ホテルのビュッフェといったところだろうか。
どの店も、お洒落で揺るぎなくて、美味しい。
けど、どこか満たされないやりきれなさがある。


私が、一番、食べたかったのは、
ザッハトルテでも、フォンダンショコラでもない、
チョコケーキだったのだ。


ただの、素朴すぎる、チョコケーキの味。
忘れない。忘れずにいたい。
いや、きっと、忘れられないだろう。


ごちそうさまでした。