スープがすき

わたしは、スープがすきである。

3食スープでもいっこうに問題ない。

むしろ歓迎する。

それくらい、すき。

 

 

スープは、万国共通である。

きっと、世界中のどの国にも、スープがある。

家庭の味だろうか、やさしい味のするものがおおい。

異国のスープを通して、その国の生活に思いを馳せる。なかなか、趣がある。

 

 

スープは、栄養満点だ。

生野菜が得意でないわたしには、大変うれしい。

素材がたくさん潜んでいる。

原型をとどめていなかったり、具がゴロゴロしていたり。

肉も、魚も、野菜も、果物も。

どんな素材も、その優しさに、とけこんでいく。

 

 

スープは、宝探しだ。

箸をすすめるうちに、意外な存在を、発見することもある。

スープをたのむたび、わたしは、わくわくする。

でこぼこの組合せが、仲良くそこにいる。すてきな化学反応だ。

作っている人も、きっと、わくわくしている。

 

 

スープは、いろんな可能性をひめている。

わたしは、スープがだいすきだ。

 

 

 

適当なカフェ

五反田の駅ビルのカフェ。
勉強するために会社帰りに立寄る。
飲み物だけ、頼んだ。

ぐるりと見渡す限り、女子2人が2組。
あとはおひとりさま8人くらい。
みんな、つとめにんという風情。

これが、ほんとう驚くよ。
見渡す限り、スマホスマホスマホ
みいんな、食事しながら、片手スマホなのだ!
思わず、息を呑んだ。

なんで2人でいるのに、向かい合ってスマホなのか。仕事終わりわざわざ落ち合ったのか。仲いいのか悪いのか。深まる謎。
向かいの妙齢のお姉さん、背中を丸くして顔を横にしてパンを片手で噛みちぎってる。片手スマホをやめて、両手で食べてください!

そうそう、ここの料理、適当なかんじなんだよなあ。
見た目だけよくて、味は適当なかんじ。
お客さんの態度も、適当なかんじになるのかなあ。
完全に意識は食事にむいていないもの。


われ、ここにあらず。ではどこにいるの?
こんな食事はやだなあ。
ふと、おもうのであった。


横のおじさんが、お店のお姉さん呼んで、開口一番
「シェフのおすすめください!」っていって、お姉さん我に返ったように驚いた。そりゃそうか。


わたしも、われにかえった。
さあて、お家に帰ろう。


ごちそうさまでした。

チョコケーキの居場所

予定がない休日。近所を散歩していた。
ふと、小さな喫茶店が目につき、
はじめて足を踏み入れた。

カランコロン、軽やかな音色。
いらっしゃいませ、ふわりとした声。
ゆるやかに流れる、音楽。

丁度よい距離感で、優しい眼差しのおばさまと、
こだわりありそうなおじさまが、佇んでいた。

チョコケーキとドリンクのセットが
700円と安かったので、注文し、
ほどなくして、サーブされた。


チョコケーキは、ただチョコを溶かして、
小麦と卵で固めたような素朴な味だった。
アーモンドプードルとか、ラム酒とか、
小洒落たものは一切入っていない。

アイスコーヒーは、氷の音が繊細で、
酸味と苦味が主張しない、和やかな味である。


食べすすめるごとに、心がほどけていくように感じる。
ずっとここにいたい、そんな気分にさせる。


これは、母の味だった。


「できたよ」
一階から甘い匂いとともに、声がして、
二階の自室から、転がるように降りていった。

母は、たまに、ケーキを焼いてくれた。
お気に入りの長細いグラスには、コーヒーとたくさんの氷。
焼きすぎただの、砂糖を控えすぎただの、
毎回、言い訳をするのだけど、
いつも、きまって、最高に美味しかった。



あたたかくて、静かな空気が流れていた。

わたしは、しあわせの真ん中にいる。



そんな記憶の中のやわらかい場所を、
チョコケーキが、想起させる。


最近、ケーキを食べたのは、
自由が丘、代官山、銀座、
高級ホテルのビュッフェといったところだろうか。
どの店も、お洒落で揺るぎなくて、美味しい。
けど、どこか満たされないやりきれなさがある。


私が、一番、食べたかったのは、
ザッハトルテでも、フォンダンショコラでもない、
チョコケーキだったのだ。


ただの、素朴すぎる、チョコケーキの味。
忘れない。忘れずにいたい。
いや、きっと、忘れられないだろう。


ごちそうさまでした。

しあわせのハヤシライス

ダイエットをやめよう。 


ハヤシライスを、意味ありげに味わい、
丸の内の夜景をみながら、思う。


そう。私はこの1か月。
(も、経っていない、相変わらず堪え性がない)
ふと痩せたいと思いたち、食事制限をしていた。

自炊は、まずいスープの繰返し。
外食にいっては、罪悪感とカロリー計算機と戦う。


食生活を見直すことができた。
野菜はたっぷりとろう。
ラーメンはたまのご褒美にしよう。
発見のある、悪くはない生活だった。


ただ、ダイエット食って、徹底的に管理されてる。
なんというか、味気なくて、想像の余地がない。
食事に対して、痩せるという目的意識をもち、
機械的に栄養を摂取してきた。


今、ハヤシライスを食べながら、気づいたこと。

この、ことこと煮込んだハヤシライス。
1こと、に愛情が何グラム入っているかとか

ハヤシライスを初めて作ったひとは、
立派な口ひげがはえていそうだとか

そんな、まったくもって意味のない妄想を
あれやこれや、ひとりぼんやりしながら、
ごはんを噛みしめる。


これこそ、わたしにとって、
これ以上ない、しあわせだ。


食事って、意味とか意義とか抜きにして、
自由に、のびのびと、泳ぐように
楽しむ権利があると思う。


人生も、そんなものじゃないのかなあ。
わかったふうに、いってみる。


ハヤシライスを漢字にしたら、早矢仕。
この世界は、意味ありそうな、そうでもないような
ふんわりとしたものに、あふれている。


ごちそうさまでした。

救われないラーメン

なんだかムシャクシャする日は、
大好物のラーメンを駆け込むことにしている。
ラーメンは、わたしにとって、
インスタントに心を満たす、精神安定剤なのだ。


仕事を切り上げ、戸越銀座にある
お気に入りの店に、足早に向かう。
ああ、早くラーメンが食べたい。

  

いつも、求めればすぐに応えてくれた。
端整で滋味深い一杯。
しかし、今日は違った。
門扉の前で立ち尽くす。
やたら達筆な「臨時休業」の文字。


なんでよりによって今日なんだ。
やり場のない悔しさを飲み込む。
いや、引きずっている暇はない。 
わたしには、今すぐラーメンが必要なのだ!


せっかくだから、いったことのない街に繰り出そう。
脳内データベースから、目当ての店をはじき出す。
電車に飛び乗り、二駅走る。


鼻息荒く向かったその先には、大行列。
お喋りをしている、若い女性が多い。ざっと30分。
一刻も早くラーメンを流し込みたいわたしに、そんな猶予はない! 

(ラーメン屋でお喋りする女子、団体さん、なぜか苦手なんだよなあ。)


善は急げ。ラーメンは急げ。
半分躍起になって、腹を鳴らせ汗をかき、一駅分、小走りで移動する。


しかしながら、現実とは非情なものだ。
灰色のシャッターには、「夏休み休業」の貼り紙。
昔ながらの煮干し中華そばを象徴するような、固く結ばれた文字。


ああ、これほどまでに欲したラーメン。
まさか、三度も拒絶されるとは。
ラーメンに、振り回されているわたし。
健気に奮い立たせた火が、今にも消えそうだ。
ラーメンよ、あなたはどこにいるの。

ついてないじゃあ、もはや釈然としない。
この不運の連続の先に、素敵な幸運があるはずだ!


微かな期待を胸に、
結局、すぐ傍にあったラーメン屋に立ち寄る。

 
きっと、とんでもなく美味しかったり、
とんでもなく店主が素敵だったり、
するんでしょう?


震える手で、古ぼけた食券機のボタンを押す。
反射的に、一番上に配置された、味玉ラーメンに手を伸ばしたときには、もう遅い。
しまった!わたしは、ラーメンに味玉を入れない主義なのに!
悔しい!やっぱり、ついてない!

(こういうラーメン屋たまにある。味玉が標準装備とみせかけて、下に小さく普通のラーメンのボタンがあるんだよなあ。)

待ちに望んだ、インスタント精神安定剤に、
申し訳なさそうに、味玉がのっている。
味玉に罪はないが、なんだか、居たたまれない。


「味玉もらうよ」
横にあなたがいてくれたら、
万事解決なのだけど。


ああ、ラーメンよ。
救いを他者に求めてるようじゃ、いつまでたっても、成長しないね。
自分のモヤモヤくらい、自分で解決しなきゃ。


泣きそうになりながら、ラーメンをすする。
そのラーメンは、やさしい味で、
ちょっぴりしょっぱい、涙の味がした。



ごちそうさまでした。

おにぎりの記憶

とあるイベントのため、休日出勤したときの話。


見動きが取れない仲間に、買出しを頼まれた。
さっと食べれるもので、お願いね。

ちょっと考えてから、
蔵前の、お惣菜屋さんで、 
不格好なおにぎりと、唐揚げを買って帰った。


みんなで、車座になって、つまむ。

しんなりした海苔の感触。
焼きたらこが、できるだけ最後まで残るよう、
注意して、食べる。
時折はさむ、ちょっとしょっぱい唐揚げ。
ぷうんと部屋全体に広がる、お肉と衣のにおい。


けっして、上等な食事とは、いえない。


でも、美味しい。
とても、美味しい。


わたしは、小学校の運動会で家族と食べた
お弁当を、思い出していた。
遠足、運動会、なにかイベントがあると、
大好きな、母親のお弁当が食べられた。


ああ、そうだ。これだ。
懐かしい感覚を思い出し、反芻していた。


人の感じ方は、経験からプログラムされると思う。
長く生きていると、経験という層に、どんどん覆われて、むくむく大きくなって、
基準が変わっていく。

こんな、安っちい食べものなんて。 
こんな、くだらないふるまいなんて。
だんだん、生意気になってくこともあるだろう。


でも、玉ねぎの芯みたいな、原始的な部分は、
変わらないのではないかしら。


うん、変わらないでいたい。


目の前で無口におにぎりを頬張るあなたは、
どう、かんじているのかしら。
あなたがどんな生き方をしてきたか、まったく知らないけど、
おんなじような芯をもってたら、
ちょっぴりしあわせ。


ごちそうさまでした。

トルコ料理に愛はあるか

日比谷のトルコ料理屋さん。
ランチセットを注文すると、すぐにスープがでてくるのだけど、
これが、繊細な味がして、落ち着く。

素材が絡み合って、のぺっとしていなくて、
異国で、試行錯誤のうえ、組合さった味かしらと、
想いを馳せる。

キッチンにいる人は、見習いの若者中心に、
ニコニコ、楽しそうに調理をしている。
こんなにもやかましく忙しない、この場所で。

きっと、この仕事、好きなのね。
自分の料理に、自信をもっているのね。


そんな思考の中、届けられたメインディッシュは、
やっぱり、おなかもこころも、満たされる。


そこにあるのは、きっと、愛。
丁寧にコトコト調合されたスープ。穏やかな笑顔に溢れたコックさん。

ほんとうは、スープはレトルトかもしれないし、
コックさんは、お客の悪口をいって笑い合ってただけかもしれない。
利益を追求するための、下心もあるだろう。


それでも、わたしは、
とても非論理的で、三段跳びくらいした思考回路で、
そこにあるふたしかな愛を、むりくり見出して、満たされている。


ああ、わたしが今ほしいのは、愛なんだろう。
きみに、愛は、あるのだろうか。


ごちそうさまでした。